正岡 容

 人生辛酸を幾多経た今日でも私の記憶から喪失することのできないのは、三歳から十四歳までの春秋をおくつた浅草花川戸の家である。祖父、祖母、大叔母、小婢と私の一家五人が、世の中も亦平穏多倖なりし明治末年から大正中世までを何苦労もなく起臥してゐた。五渡亭国貞の絵がいかに婉やかに美しいか、それを教へたのはあの大そう腰の曲つた祖母であつた、児雷也豪傑譚や白縫譚さては万亭応賀の釈迦八相記がいかに怪奇で悲哀であるか、それを知らせて呉れたのはあの切髪にしたいろの黒い背の高い大叔母であつた、『江戸砂子』の作者菊岡沾涼の息と己とはありし日の茶飲友だちであつたわと私に屡々語つて呉れたは、顔一めんの痘痕のあとの子供心にも怖しかつた祖父であつた。それかあらぬか祖父は月並の発句もやつたし、川柳点の狂句もやつた、『柳多留』の原本と手摺れて光沢のでた古碁盤とは、いつも祖父を偲ぶとき、なつかしくわが目の前にあらはれて来ずにはおかない。

 戦火に遭うまで大塚の花街に、私たちはいた。先だって輪禍で死んだ三遊亭歌笑の家のすぐそばにあたろう。
 その頃女房が教えていた新舞踊のお弟子はたいてい若い妓ばかりだったが、その中の一人が一日やってきて、
「先生、キミサリンって踊りを教えてください」
「キミサリン? そんな風邪薬みたいな踊り知らないわねぇ」
 言いつついろいろ考えた末、やっとわかって彼女、思わずふきだした。
 その踊りは、歌謡曲に取材したもので、すなわち、君去りぬ。
 同じ頃、拙作「花の富籤」を古川緑波君が上演、その前祝いを土地の待合で催したことがあったが、もうそろそろ酒が乏しく、サイレンが時々鳴き出す頃で、昭和十七年おぼろ夜、緑波君と脚色者の斎藤豊吉君と桂文楽、林家正蔵(当時は馬楽)両君と私たち夫婦で、女房の門下生の若い妓がズラリ十何人並んで何とこの勘定が七十余円、思えばゆめです。

 暮れも押し詰まった夜の浅草並木亭。
 高座では若手の落語家橘家圓太郎が、この寒さにどんつく布子一枚で、チャチな風呂敷をダラリと帯の代わりに巻きつけ、トボけた顔つきで車輪に御機嫌を伺っていた。
 クリッとした目に愛嬌のある丸顔の圓太郎がひと言しゃべるたび、花瓦斯の灯の下に照らしだされた六十人近いお客たちは声を揃えてゲラゲラ笑いこけていた。こんな入りの薄い晩のお客は周囲に気を兼ねて、えてして笑わないものである。いや現に今夜のお客も、最前まではその通りだった。それが圓太郎が上がってから、にわかに爆笑の渦が巻き起こった。
「ウッフッフッフ」
「ワッハッハッハ」
 ひッきりない笑いの波だった。