「日本の作家」カテゴリーアーカイブ

正岡 容 その3

 ところで白浪物を多く創作口演したところから通称を泥棒伯円と唱はれた二世松林伯円も嘗て河内山の邸宅に居住してゐたので、その一代記の創作をおもひ付いたと云はれてゐる。とすれば私共の一家が居住してゐた一、二代前、夙くも彼はこの廃邸に起臥してゐたものらしい。河竹黙阿弥が伯円の講釈の高評に動かされて「雲上野三衣策前」を劇化上演したのは明治七年十月であるから当然伯円が製作発表したのはその以前。或は明治改元当時であつたかもしれない。伯円の河内山速記にはかの玄関先の快文字はなく、また直侍よりも金子市の方を二枚目として優遇してゐる。従つて玄関先の快、入谷の婉、此らはいづれも黙阿弥その人の創作である。暗闇の丑松の五斗兵衛市ころし、此又伯円の創作ではなく後世上方種の産物である由。

 さるにても圓朝三十歳、明治御一新に際会するところまでで、ひとまず私はこの小説を終らねばならなくなった。後半生のくさぐさについてはひと息吐く暇もなく引き続いて筆硯を新に、書き上げたい心算である。
 さるにても私が「圓朝花火」なる短篇を仕上げ、谷中全生庵なる圓朝の墓へ御礼詣りにいったとき、たまたまそれが八月十一日祥月命日で、本堂からは圓朝の名跡を預かっていられる大根河岸三周さん(藤浦富太郎氏)営まれる法事の読経の声、いと厳かに聞こえてきていたということはかつて短篇集『狐祭』の末尾へしたためたが、その前後から月詣りはじめてもう今年で七年の月日が経つ。その間に「慈母観音」「圓太郎馬車」「弟子」とさらに圓朝をめぐる三作を私は得た。

 先づ春団治は「音」の描写に、凡そ嶄新なポンチ絵風の手法を用ゐた。ちよつと東西、他に例がない。いや、考へ付いた人位はあつたかもしれないが、春団治のやうなあのドギツイ太い声による表現以外、到底、悪くすぐりに堕するのみであることをおもひ、やめてしまつたらうとおもふ。
 泥棒が兇器で板戸を破る、その音の表現に、ベリバリ、ボリ。(「書割盗人」東京の「夏泥」)
 拍子木を鳴らす音は、カラカツチカツチ。(「二番煎じ」)
 往来に掛け廻してある竹簾のやうなものを開ける音に、カラカツチヤカツチヤカツチヤ(「へつつい盗人」)
 その竹簾がぶツ倒れ、よろけて傍らの三輪車の喇叭を押さへる音を一ぺんに表現して、ドンカラカツチカツチ、プープ(「へつつい盗人」)

正岡 容 その2

 その頃、落語家の檜舞台といわれた、向こうの垢離場の昼席でトリをつとめて三百五百の客を呼び、めきめき大方の人気を煽り出した圓朝は、いつしか橋ひとつを隔てた土地のこのお絲と恋仲になっていたのだ。元治元年、圓朝二十六歳の夏だった。
「アラ葛ざくらなんか。じゃ、こっちの有信亭の共白髪のほうがオツでさあね。ね、ほら、アーンと口をお開きなさいよ」
 いっぱいの幸福感を顔中に漲らせて、お絲は、風雅な朱塗りの箸で名代の共白髪をはさみかけたが、
「おっとっと、お絲、それにゃおよばねえて」

 私は、昨年の明日、東京巣鴨花街の居宅を兵火に焼かれた。それから一年目の今日、ここ下総市川の里に卜居して残花の午下りを、嘱されて旧東京夏宵の追懐など閑文字を弄する境涯になつてゐられようとは、どうしてあのときおもひ知る由があつたらう。すべては是れ平和来の余沢と申さなければならない。
 年少返らぬ日の東京街上の夏景色をおもふとき、忽ちにして眼底に蘇へり来るは群青で波しぶき描いたあの笹嶋の氷屋の暖簾と夜空飛ぶ蝙蝠の群れとである。氷屋の暖簾にはまだ緑、水色など涼しい色気の玻璃玉を選んで滝のやうに硝子籠をぶら下げてゐる見世もあつた。夜になると硝子の方の簾は店内の燈花が反映して金や白金や銀にかがやきキラキラと一そう涼しさうだつた。のちになつて木下杢太郎の硝子問屋の詩や小説を愛誦したとき、ゆくりなくも私はこの昔の氷屋の硝子暖簾を聯想せずにはゐられなかつた。

 亡くなられた泉鏡花先生のお作の中でも、「註文帳」は当然代表作の一つに数へていいものだらう。殊に雪もやひの日の鏡研ぎ五助の家のただずまひ、雪明りの夜の吉原の撥橋、おなじ雪の夜更けの紅梅屋敷――情が、姿が、廓の景色が、マザマザ手に取るやうに浮かんで来てたゞたゞ敬服のほかはない。
 が、あの五助の家のくだりであぐねてゐた空から白いものがチラつきだし、軈て「唯一白」の大雪となる。あの大雪の有様を、

「折から颯と渡つた風は、はじめ最も低く地上をすつて、雪の上面を撫でて恰も篩をかけたやう、一様に平にならして、人の歩行いた路ともなく、夜の色さへ埋み消したが、見る/\垣を桓り軒を吹き廂を掠め、梢を鳴らし、一陣忽ち虚蒼に拡がつて、ざつと云ふ音烈しく、丸雪は小雅を誘つて、八方十面降り乱れて、静々と落ちて来た」

正岡 容

 人生辛酸を幾多経た今日でも私の記憶から喪失することのできないのは、三歳から十四歳までの春秋をおくつた浅草花川戸の家である。祖父、祖母、大叔母、小婢と私の一家五人が、世の中も亦平穏多倖なりし明治末年から大正中世までを何苦労もなく起臥してゐた。五渡亭国貞の絵がいかに婉やかに美しいか、それを教へたのはあの大そう腰の曲つた祖母であつた、児雷也豪傑譚や白縫譚さては万亭応賀の釈迦八相記がいかに怪奇で悲哀であるか、それを知らせて呉れたのはあの切髪にしたいろの黒い背の高い大叔母であつた、『江戸砂子』の作者菊岡沾涼の息と己とはありし日の茶飲友だちであつたわと私に屡々語つて呉れたは、顔一めんの痘痕のあとの子供心にも怖しかつた祖父であつた。それかあらぬか祖父は月並の発句もやつたし、川柳点の狂句もやつた、『柳多留』の原本と手摺れて光沢のでた古碁盤とは、いつも祖父を偲ぶとき、なつかしくわが目の前にあらはれて来ずにはおかない。

 戦火に遭うまで大塚の花街に、私たちはいた。先だって輪禍で死んだ三遊亭歌笑の家のすぐそばにあたろう。
 その頃女房が教えていた新舞踊のお弟子はたいてい若い妓ばかりだったが、その中の一人が一日やってきて、
「先生、キミサリンって踊りを教えてください」
「キミサリン? そんな風邪薬みたいな踊り知らないわねぇ」
 言いつついろいろ考えた末、やっとわかって彼女、思わずふきだした。
 その踊りは、歌謡曲に取材したもので、すなわち、君去りぬ。
 同じ頃、拙作「花の富籤」を古川緑波君が上演、その前祝いを土地の待合で催したことがあったが、もうそろそろ酒が乏しく、サイレンが時々鳴き出す頃で、昭和十七年おぼろ夜、緑波君と脚色者の斎藤豊吉君と桂文楽、林家正蔵(当時は馬楽)両君と私たち夫婦で、女房の門下生の若い妓がズラリ十何人並んで何とこの勘定が七十余円、思えばゆめです。

 暮れも押し詰まった夜の浅草並木亭。
 高座では若手の落語家橘家圓太郎が、この寒さにどんつく布子一枚で、チャチな風呂敷をダラリと帯の代わりに巻きつけ、トボけた顔つきで車輪に御機嫌を伺っていた。
 クリッとした目に愛嬌のある丸顔の圓太郎がひと言しゃべるたび、花瓦斯の灯の下に照らしだされた六十人近いお客たちは声を揃えてゲラゲラ笑いこけていた。こんな入りの薄い晩のお客は周囲に気を兼ねて、えてして笑わないものである。いや現に今夜のお客も、最前まではその通りだった。それが圓太郎が上がってから、にわかに爆笑の渦が巻き起こった。
「ウッフッフッフ」
「ワッハッハッハ」
 ひッきりない笑いの波だった。